人々から出たのでもなく、人を通して出たのでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神とによって使徒となったパウロ。
ガラテヤ人への手紙 1章1節(新改訳2017)理性を越えて響く天からの招き、真の召しの始まり
ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、人間の理性には限界があり、有限な存在である人間は、 自分の力だけで絶対なる神の領域に到達することはできないと論じました。人間が積み上げた 知識や理性的な努力、あるいは道徳的な実践によって、救いへの門を開くことはできません。 その門を開くことができるのは、ただ神が上から与えてくださる恵みの啓示だけです。
聖書は、人間の方法や宗教的な努力によって神に近づくことを福音とは呼びません。 神ご自身が御子イエス・キリストを通して私たちのもとへ来てくださった、この出来事こそが 「福音」です。
日本オリベットアッセンブリーの聖書の黙想を通して聞くガラテヤ書の冒頭の御声は、 私たちの信仰が人間の決意や、この世の権威による任命の上に築かれたものではなく、 イエス・キリストが今も生きておられるという真実と、その復活によって確かに立てられた ものであることを、厳かに宣言しています。
真の召しと、遣わされた者としてのアイデンティティーは、復活されたイエス・キリストとの 出会いから始まります。初代教会には、福音の純粋さを揺るがそうとする偽教師たちが 入り込みました。彼らは、使徒パウロには正当な権威がないと主張し、その使徒職と教えを 絶えず攻撃し、人々の信頼を揺さぶっていたのです。
彼らの狙いは、使者であるパウロを攻撃することで、彼が宣べ伝えた福音そのものの 真実性を崩すことにありました。しかし、そのような中傷を前にしても、パウロは 人間的な妥協や耳当たりのよい言葉に頼ることはありませんでした。彼は真正面から 向き合い、自分が使徒とされたのは、人から出たことでも、人を通して与えられたことでも なく、ただイエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神による ものであると、力強く告白します。
この御言葉は、私たちに厳粛な問いを投げかけています。私たちは、世の承認や人間が 与える肩書き、証明書に支えられて生きているのでしょうか。それとも、ただ神から 与えられる天の召しを握りしめ、その召しに生きているのでしょうか。
崩れた城壁の隅で、紫水晶の輝きを放つ恵みを見いだす
ヨハネの黙示録に描かれる聖なる都エルサレムには、十二の土台石があります。その最後、 十二番目に置かれている宝石が紫水晶です。聖書において「十二」という数字は、神の民を 象徴する特別に重要な意味を持っています。イスカリオテのユダが脱落したことによって 空いた最後の使徒の席を満たすため、エルサレム教会はくじを引き、マッティアを十一人の 使徒に加えました。使徒の働きでは、使徒となるための資格として、二つの条件が 示されています。第一は、主イエスが昇天される時まで終始同行していた者であることです。 第二は、復活されたイエスを自らの目で見て、その復活の証人となることです。
パウロは、第一の条件には当てはまりませんでした。そのため、自らを「月足らずで 生まれた者」のような存在であると表現し、自分が時機にかなわず、欠けのある者で あることをへりくだって認めています。しかし一方で、復活された主と直接お会いし、 そのよみがえりを全身全霊で宣べ伝える復活の証人としての召しだけは、誰にも 揺るがすことのできない確かなものでした。
外面的な律法の視点から見れば、最後の十二番目の座を満たしたのはマッティアである ように見えます。しかし、神が内に秘めておられたご計画に目を向けるなら、異邦人への 福音宣教という使命のために備えられた、真の最後の宝石はパウロでした。私たちは、 目に見える形式や人間の判断だけにとらわれると、いつの間にか律法の奴隷となって しまいます。しかし、人の欠けさえも覆ってくださる神の主権的な召しに信頼するとき、 私たちの魂は初めて恵みのもとで真の自由を得て、生き生きと歩むことができるのです。
荒れ野の孤独の中で練り上げられる、徹底した確証の時
パウロは、ダマスコへ向かう途上でキリストの圧倒的な啓示を受けました。しかし、 その直後にエルサレムへ行き、ほかの使徒たちから自らの召しを認めてもらおうとは しませんでした。また、故郷タルソスの親族に相談し、人間的な助言を求めることも ありませんでした。それどころか、彼はアラビアの荒れ野へと身を置き、その後再び ダマスコへ戻るまで、およそ三年にわたる歳月を神の御前で過ごしました。その静かな 時間の中で、自分に与えられた召しの意味を深く思い巡らし、その確かさを徹底して 確かめていったのです。
この沈黙の時は、パウロを人間の考えに従う巧みな宗教教師ではなく、ただイエス・ キリストから受けた啓示だけを揺るぎなく宣べ伝える、異邦人の使徒として形づくる ための聖なる訓練の期間でした。私たちの信仰もまた、世の多くの嘲りや異論に 揺さぶられないためには、人の視線から離れ、ただ一人、御言葉の前に立つ深い 祈りの時間を必要としているのです。
たとえ天から来た御使いであっても、初めに聖徒たちへ宣べ伝えられた恵みの福音に、 人間の行いや功績、あるいはこの世の条件を付け加えて語るなら、その者は厳しい 呪いを免れることはできません。
律法という重い軛の下で、自分の行いによって救いを得ようとする者は、結局、 アラビアのシナイ山と、今の地上のエルサレムが象徴するように、奴隷として仕える 子どもたちにとどまります。しかし、天にある自由のエルサレムを見上げ、ただ神の 約束によって生まれた者は、神の完全な憐れみのもとに生きる自由な者です。
日本オリベットアッセンブリーの聖徒たち、そして福音の道を歩む神学生たちは、 キリストが十字架においてすでに完全に成し遂げてくださった贖いを信頼し、希望を 抱きながら、静かに主の御心に従って歩んでいかなければなりません。私たちの信仰は 今、人間の考えやこの世の一時しのぎの手段を手放し、魂を真に自由にする福音の中で、 平安を味わいながら前へ進んでいるでしょうか。
また、私たちの信仰を揺さぶるさまざまな世の声に囲まれる中で、ただ主の細き 御声に耳を澄ますことのできる、私自身の「アラビアの荒れ野」はどこにあるで しょうか。ぜひコメントで、皆さまの黙想をお分かちください。