11ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべき点があったので、私は面と向かって彼を責めました。 12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまで、彼は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている人々を恐れて、身を引き、離れて行ったからです。 13そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動を取り、バルナバまでも、彼らの偽善に引き込まれてしまいました。 14しかし私は、彼らが福音の真理にそって、まっすぐに歩んでいないのを見たとき、みなの前でケファにこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人のようにではなく、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人のような生活を強要するのですか。」 15私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人の罪人ではありませんが、 16人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰による、ということを知って、私たちも、律法の行いによらず、キリストを信じる信仰による義と認められるために、キリスト・イエスを信じたのです。律法の行いによっては、誰ひとりとして義と認められないからです。 17しかし、もし私たちがキリストにあって義と認められることを求める中で、私たち自身も罪人であることが分かったとしたら、それではキリストは、罪を助長する者なのでしょうか。決してそんなことはありません。 18もし私が、一度打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分自身を違反者として立証することになります。 19私は、律法によって律法に死にました。それは、神に対して生きるためです。 20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の子を信じる信仰によっているのです。 21私は、神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるのなら、キリストは無駄に死なれたことになります。
ガラテヤ人への手紙 2章11-21節(新改訳2017)古代ローマの都市や古い城郭の周辺を歩いていると、城壁の中央に今もなお立ちはだかる、冷たい石造りの壁に出会うことがあります。それは、人間が引いた境界線であり、疎外や排斥を象徴する分離のしるしです。ベルリンの壁や、歴史の中で数多くの帝国が築いた国境の壁がそうであったように、人と人との間を隔てる壁は、優越感や差別を生み出し、多くの人に深い孤立の痛みを与えてきました。初代教会もまた、この目には見えない大きな壁の前で、深い苦しみを経験しなければなりませんでした。ユダヤ人と異邦人を隔てる長年の宗教的・文化的な壁、そして律法の儀式を基準とする区別が、聖徒たちの交わりを引き裂いていたからです。日本オリベットアッセンブリーのガラテヤ書講解説教は、この冷たい壁を打ち壊し、私たちに真の信仰の自由を与えてくださった十字架の贖いの恵みを、深く照らし出します。
儀式のくびきを越えて自由を与える恵みの福音
キリスト教信仰が、この世の多くの宗教や伝統的なユダヤ教と根本的に異なるのは、人間の行いや儀式を救いの土台としない点にあります。ユダヤ教では、安息日や新月の祭り、さまざまな祝祭日、食物規定、さらには身体に刻まれるしるしである割礼など、多くの律法の定めを通して、自らのアイデンティティーを確認しようとしていました。しかしガラテヤ書2章は、人が救いを受け、真の自由を得る道は、このような律法の儀式を守ることによって開かれるのではないと、明確に宣言しています。使徒パウロが、あれほど激しい語調でガラテヤの聖徒たちに手紙を書いた理由も、まさにここにありました。キリストの尊い血によって自由とされた人々を、再び古い律法の奴隷へと引き戻そうとする動きに立ち向かい、福音の純粋さを守り抜こうとしたのです。
エルサレム会議は、教会史において、ユダヤ人と異邦人との間を隔てていた最も大きな壁が取り払われた、歴史的な出来事でした。信仰によって聖霊を受けた異邦人たちに、先祖たちでさえ負い切ることのできなかった律法のくびきを負わせないと決定したこの宣言は、福音が特定の民族だけのものではなく、すべての人のために与えられた救いの良き知らせであることを明らかにしました。もしこのとき、この壁が取り払われていなければ、福音は人間の功績や律法の規定という不純物によって損なわれていたことでしょう。私たちが救われたのは、人間の努力や条件、律法を守る行いによるのではありません。神が無償で与えてくださった恵みによるのです。この真理こそ、教会が決して妥協してはならない福音の核心なのです。
十字架によって打ち壊された隔ての壁と神の国の平和
イエス・キリストがこの地に来られ、血を流された最も重要な目的の一つは、人と人との間を隔てていた数多くの壁を打ち壊すことでした。主がエルサレム神殿に入り、売り買いをする者たちを追い出して神殿を清められた出来事も、商人たちの行為を戒めるだけが目的ではありませんでした。異邦人の庭を隔て、彼らが近づくことを堅く拒んでいた冷たい壁と、そのような神殿制度そのものに向かって、主イエスは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言者イザヤの御言葉を宣言されました。主イエスはご自身の肉を裂くことによって、聖所と至聖所を隔てていた壁を打ち壊し、選民と異邦人の間に長く存在していた差別の壁を完全に取り除かれたのです。
しかし今日でも、多くの生活の場や、さらには教会の中でさえ、知らず知らずのうちに別の壁が築かれてしまうことがあります。アンティオキアでは、ペテロとバルナバは異邦人の聖徒たちと食卓を共にしていましたが、ユダヤ人たちの目を気にして、そっとその場を離れてしまいました。この出来事は、私たちの心の中に今なお残っている嫌悪や差別の思いを鋭く浮き彫りにしています。私たちは皆、キリストにあって一人の兄弟、一人の姉妹であると告白しながらも、密かな優越感から他者を見下したり、距離を置いたりしてしまうことがあります。そのような偽善は、福音の真理に従ってまっすぐ歩む姿ではありません。十字架は、このような人間的な隔たりや傷を取り除き、私たちを神の国の同じ市民、そして神の家族として一つに結び合わせる、唯一の平和の道なのです。
私が死に、キリストが生きる贖いの奥義
律法は、私たちに罪とは何かを悟らせる鏡であり、人間が自分の力では決して義とされることができないという事実を突きつける、とげのようなものです。死のとげを前にして、パウロが「私は本当に惨めな人間です」と嘆いたように、律法の基準に照らされると、人は自分には自らを救う力がまったくないことを悟るようになります。神は、そのような人間の絶望をご存じであり、ご自身のひとり子をこの世に遣わし、私たちに代わって十字架の上で贖いの血を流してくださいました。この贖いの御業は、悪魔でさえも、もはや人間を訴えることができないように、法的にも完全に成し遂げられた神の救いの啓示なのです。
この救いの恵みを自分のものとして受け取る通路こそ、信仰です。この信仰とは、単なる心理的な同意ではありません。キリストの受肉と死、贖い、復活、そして昇天という神の御業を全面的に受け入れ、キリストと一つにされることです。パウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白したように、この言葉は真の聖書黙想の真髄を示しています。古い自我や人間的な功績は、すでに十字架の上で死にました。そして今、私たちは、私を愛し、私のためにご自身を献げてくださった神の御子を信じる信仰によって、新しいいのちを生きるのです。
恵みと知識のうちに共に築き上げる共同体
私たちが心に留めるべき福音の恵みは、理論や神学的な知識にとどまるものではなく、聖徒同士の深い一致と寛容という実を結ばなければなりません。法的には完全に救われた聖徒であっても、日々の生活の中では、互いの違いや弱さのゆえに葛藤を経験することがあります。使徒パウロは、真理に関わる問題に対しては一瞬たりとも妥協しない揺るぎない姿勢を貫きました。しかしその一方で、弱い者の良心を傷つけないためであれば、一生肉を食べないと宣言するほどの寛容さも持っていました。私たちは、その両方の姿勢を心に刻む必要があります。福音は決して、冷たい教理的な批判によって他者を断罪するための剣ではありません。むしろ、他者の痛みに深く共感し、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く愛の通路なのです。
後に使徒ペテロは、自らの過ちを厳しく指摘したパウロの手紙について、「私たちの愛する兄弟パウロも、彼に与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送った」と記し、彼を高く評価しました。この姿は、教会が目指すべき最も美しい成熟の姿を示しています。使徒たちの教えと福音の真理の上に堅く立ちながら、互いを受け入れ、キリストの愛によって一つとなっていくことこそ、主イエスが望んでおられる神殿の姿です。日本オリベットアッセンブリーの聖書黙想が語り続ける福音のメッセージは、今日も私たちに、ただ恵みという唯一の道を示し、十字架の御前へ静かに歩み寄るよう、穏やかに招き続けています。
第二に、私たちの信仰生活は、ただ主の恵みにより頼む歩みとなっているでしょうか。それとも、自分の行いや功績、あるいは人の目を気にするあまり、知らず知らずのうちに偽善的な姿に頼ろうとしてはいないでしょうか。
最後に、「私はキリストとともに十字架につけられました」というパウロの告白のように、今日の私たちの歩みの中で、手放して主に明け渡すべき古い自我とは何なのかを、静かに黙想しましょう。福音が打ち壊してくださった数多くの壁の向こうに、ただ恵みの光だけが、私たちの人生を豊かに照らし続けますように。