講解 09 / 全12講

二つの契約、ただ御霊によって歩みなさい
Two Covenants, Walk by the Spirit

ガラテヤ人への手紙 4章21節–5章15節
Scripture

本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 4章21節–5章15節 です。

お読みいただく前に、お手元の聖書、または新日本聖書刊行会の聖句検索にて、該当箇所を一度お通しくださいますようお願いいたします。

聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会
訳文について:本講解の聖句箇所は、新改訳2017に基づいて掲載しております。正確な引用のため、実際のご使用の際は、お手元の聖書と照らし合わせてご確認いただければ幸いです。

マルティン・ルターは、ガラテヤ人への手紙を「わたしの書簡」「わたしのケーテ・フォン・ボラ」(わたしの妻)と呼びました。そしてこの手紙を、律法の重い鎖を打ち砕き、人間の魂を自由にする福音の真髄として大切にしていました。この世では、人間が自分の力や功績によって自分を救おうとする試みが絶えることがありません。そのような中で、ただ恵みによって救われるという福音は、囚われている者に告げられる解放の宣言です。

私たちはしばしば、自分の行いや義という城壁の中に閉じこもり、神との関係を条件つきの取引のように考えてしまいます。日本オリベットアッセンブリーでは、ガラテヤ人への手紙4章と5章を通して、こうした霊的な混乱や、ご利益を求めるような信仰の誤りについて、そして、二つの契約の明確な違いと、御霊のうちでこそ味わうことのできる真の自由の深い意味についても、分かち合われています。

神と人間との関係は、本質的に、被造物としての「絶対的な依存性」の上に成り立っています。人間は神なしには一瞬たりとも存在することができません。私たちが息をし、生きている一瞬一瞬が、神の測り知れない恵みによって支えられています。しかし、罪によって創造主のもとを離れた人間の人生には、不安と恐れ、そして聖なる神の御怒りが残されました。自ら人生の主となろうとした高慢によって、人間はかえって自分自身を罪の奴隷へと陥れてしまったのです。そのような深い絶望の淵に御霊が訪れてくださるとき、初めて、頑なになった人間の魂の内に驚くべき関係の回復が始まります。御霊の御業によって、私たちはもはや神を恐れ、震えながら憐れみを乞う奴隷のようにではなく、愛される子として「アバ、父よ」と呼びかけることができるようになります。そこに救いの喜びがあります。これこそ、人間がどのような者であるかに基づくのではなく、ただ上から注がれる福音の力であり、恵みの本質なのです。

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肉のあがきを超えて、約束の季節へ

パウロは、この偉大な福音の真理を説き明かすために、アブラハムの家にいた二人の女性と二人の息子の歴史を、霊的な意味をもつものとして解き明かします。ハガルとサラ、そして彼女たちから生まれたイシュマエルとイサクの物語は、古い時代の家族の歴史にとどまりません。そこには、人間の熱心と神の約束という、人類の歴史を貫く二つの生き方が映し出されています。ハガルと、彼女から生まれたイシュマエルは、肉によって生まれた者として、人間の思いや生まれながらの力に頼り、自らの手段によって結果を生み出そうとする律法主義的な態度を象徴しています。それはシナイ山に由来し、地上のエルサレムへとつながっています。そして、救いの条件に縛られ、霊的な奴隷状態にとらわれている律法的な教会の姿を映し出しているのです。

アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。 ガラテヤ人への手紙 4章22-23節(新改訳2017)

一方、サラは神の約束によってイサクを与えられました。人間のあらゆる可能性が失われ、自分の力では何ひとつ生み出すことができないという現実の中で、神の主権的な力が働き、その胎を開いて約束の子を誕生させたのです。これは天にあるエルサレムを指し、十字架の恵みによって完全な解放を与えられた、自由な者たちの教会を象徴しています。

兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。 ガラテヤ人への手紙 4章28節(新改訳2017)

私たちの信仰生活も、日々この二つの道のどちらを歩むかを問われています。自分の義や宗教的な行いを積み重ね、それによって神の前に進み出ようとする。これは肉の努力です。どれほど敬虔に見えても、結局は自分自身を律法の下に縛りつけ、奴隷の状態へと導いてしまいます。ここで聖書の言葉は、私たちの内になお残る奴隷的なあり方を、はっきりと退けるよう勧めています。そして、ただ約束によって生まれた自由の子として、謙遜に恵みの座にとどまるよう勧めています。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。 ガラテヤ人への手紙 4章30-31節(新改訳2017)
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くびきを取り除いた十字架、その聖なる解放

キリストが私たちのために十字架を負い、水と血を流してくださったのは、私たちに完全でまことの自由を与えるためでした。ですから、福音の光の中へと導かれた者は、再びこの世のご利益を求める信仰に戻ったり、律法という奴隷のくびきを負ったりしてはならないのです。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。 ガラテヤ人への手紙 5章1節(新改訳2017)

もし誰かが、肉体の割礼や特定の律法的な行いを付け加えなければ義とされないと主張するなら、それはキリストが十字架で成し遂げてくださった完全な救いの恵みを、自ら無益なものとしてしまう痛ましいことです。救いとは、人間が自分の正しさを証明しながら積み上げていく功績の塔ではありません。神が上から、何の代価も求めず、ただ恵みによって与えてくださる賜物なのです。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。 ガラテヤ人への手紙 5章4節(新改訳2017)

信仰によって義とされた聖徒たちは、外面的な条件を満たしたり、行いによって何かを成し遂げたりすることで、自分の義を証明しようとはしません。むしろ御霊によって、信仰により、やがて完成される義の望みを仰ぎ見ながら、大胆に歩んでいきます。律法の厳しい要求のもとで絶えず罪責感と断罪に苦しめられていた魂は、キリストの完全な贖いによって自由を得るとき、もはやその人生を、無理に守らなければならない息苦しい義務として生きることはありません。感激と感謝に満たされた、聖なる礼拝の日々へと変えられていくのです。

十字架が告げ知らせた解放こそ、何ものにも代えがたい、聖徒の信仰を支える唯一の土台です。この福音の真理こそが、私たちの心が揺れ動くそのたびごとに、何よりも力強い慰めと力を与えてくれるのです。

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自由の翼をもって愛の奴隷となる逆説

しかし福音が宣べ伝える自由とは、自分勝手に生きてよいという放縦でも、肉の欲を満たすための利己的な機会でもありません。本文のメッセージは、この自由が行き着くべき、最も深く崇高な地点へと私たちを導いていきます。それはまさに、愛によって互いに仕え合うという、聖なる逆説にほかなりません。真の自由人とは、律法の強制や罰への恐れゆえに他者に仕える者ではなく、キリストから受けた比類なき恵みに縛られ、自ら喜んで他者の僕(しもべ)となる者なのです。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。 ガラテヤ人への手紙 5章13-15節(新改訳2017)

律法主義の霊が共同体を支配するようになると、人々はいつも互いを自分の物差しで測るようになります。そして、相手を批判し、断罪し合い、ついには互いをかみ合い、食い合って、共に滅んでいくという悲しい結果を招いてしまいます。

しかし、御霊に従って歩む人たちの姿は、それとは大きく異なります。非難や断罪の刃をおさめ、自分よりも他の人を高く思い、愛をもって互いの重荷を負い合うようになるのです。このように愛を実践することは、律法によって無理に果たさなければならない息苦しい義務ではありません。それは、御霊が私たちの内に自然に結んでくださる聖なる実です。そしてそれこそが、恵みを受けた人々が集う福音的な共同体にふさわしい、麗しい姿なのです。この世の呪術的でご利益を求める信仰や、自分の功績にとらわれた律法的な行いを脱ぎ捨てるとき、そこからようやく、ただ御霊に従って歩む真の信仰の成熟が始まるのです。

では、私たちはどうでしょうか。いったい何に縛られて、日々を生きているでしょうか。自分の行いや達成に頼り、今もなお不安や断罪の中で奴隷のように歩んではいないでしょうか。それとも、上から与えられた神の約束を信じ、自由な者としての喜びをもって神を仰ぎ見ているでしょうか。私たちは、自分自身の歩みを顧みる必要があります。キリストが血を流して贖い取ってくださった、この尊く自由ないのちを与えられた私たちは、今日、いったい誰に向かって手を差し伸べているでしょうか。そして誰のために、喜んで愛の僕となっているでしょうか。

✍️ 聖書黙想の問い(ともに分かち合いましょう) 第一に、私は今、ハガルの子のように、自分の行いや律法によって神の御前に立とうとしてはいないでしょうか。それとも、サラの子のように、ただ神の約束と恵みに謙遜により頼んでいるでしょうか。

第二に、キリストが十字架によって断ち切ってくださった奴隷のくびきを、私は再び自分の力で負おうとしてはいないでしょうか。信仰による義に堅く立ち、恵みから離れることのないよう、自分の歩みを静かに振り返ってみましょう。

最後に、キリストから与えられた自由を、私は互いに仕え合う愛の機会として用いているでしょうか。それとも、断罪や非難によって兄弟姉妹を傷つけてはいないでしょうか。御霊の実が私たちの内に豊かに結ばれるように、隣人への愛について改めて思い巡らしてみましょう。