講解 08 / 全12講

「アバ、父」と呼ぶ子の自由
No Longer a Slave, but a Son

ガラテヤ人への手紙 4章1-20節
Scripture

本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 4章1-20節 です。

お読みいただく前に、お手元の聖書、または新日本聖書刊行会の聖句検索にて、該当箇所を一度お通しくださいますようお願いいたします。

聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会
訳文について:本講解の聖句箇所は、新改訳2017に基づいて掲載しております。正確な引用のため、実際のご使用の際は、お手元の聖書と照らし合わせてご確認いただければ幸いです。

ソフォクレスの悲劇に登場するオイディプスは、自分が何者であるかを知らないまま、自ら悲劇の中へと歩み込んでいきました。人間としての尊さや人生のあり方は、自分が何者であり、どこに立っているのかをどう理解するかによって、大きく変わります。自分が誰なのか分からず、何を拠り所に生きればよいのかを見失うと、心は不安定になります。この世のわずかな評価や条件にも心を揺さぶられ、簡単に崩れてしまうほど弱くなるのです。この根本的な問いについて、日本オリベットアッセンブリーのガラテヤ書講解を通して、私たちは改めて自分自身の信仰を見つめることになります。私たちは今も、律法やこの世の条件に縛られ、人の顔色をうかがいながら生きる奴隷のような状態にとどまっているのでしょうか。それとも、創造主なる神を「アバ、父」と呼び、永遠の子として与えられた自由を味わいながら生きているのでしょうか。使徒パウロがガラテヤの教会に語った力強いメッセージは、この問いを私たち一人ひとりにまっすぐ突きつけます。そして、今日を生きる私たちの鈍くなった信仰を呼び覚まし、深い神学的な洞察をもって私たちの心に迫ってくるのです。

ユダヤ主義的な偽教師たちは、クリスチャンを名乗りながら教会に入り込み、人々を再び律法の束縛の下へ引き戻そうとしました。これに対してパウロは、福音と律法の本質的な違いを示しながら、「子」と「奴隷」の違いを鮮やかに解き明かします。律法の下では、神と人との関係は、厳格な主人と奴隷のようなものでした。しかし福音は、私たちを奴隷の立場から子の立場へと引き上げます。「自分は神の子である」という揺るぎない自覚が心に根づくとき、私たちの信仰にも深い根が下ろされていきます。そして、人生を揺さぶるどのような試練にも負けずに歩む力が与えられるのです。

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律法という後見人を経て、子の時へと進む

歴史の中には、流れる水のように過ぎていく量的な時間である「クロノス」と、神の救いの計画が実現する決定的な時である「カイロス」があります。水の温度が一度ずつ上がり、百度に達すると沸騰するように、人類の霊的な歩みも、神が定められた時に向かって進んできました。子どもは、やがて家のすべての財産を受け継ぐ相続人です。しかし幼いうちは、後見人や管理人の下に置かれ、奴隷とほとんど変わらない状態で過ごします。ユダヤ教における律法の時代も、真の子の時代を迎えるまでの、暫定的な霊的養育の期間でした。私たちは、この世のもろもろの霊と養育係の下で、奴隷のような状態に置かれていました。しかし、ついに時が満ちると、神はご自分の御子を遣わされました。御子は女から生まれ、律法の下にある者となられたのです。

神の御子が罪に満ちたこの世に来られた受肉は、高き所におられる神が、人間の最も低く惨めな歩みのただ中へと降りて来られた出来事でした。それは、人間の理解を超えた神の愛の御業です。全能なる方が飼葉桶という低い場所でお生まれになり、最後には十字架という凄惨な死を選ばれたのは、律法の下につながれていた人々を贖い出すためでした。十字架は、ユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かで無意味なものに見えます。しかし、召された者たちにとっては神の知恵であり、この世に打ち勝つ絶大な神の力です。贖いの主は、私たちに代わって罪のすべての代価を支払い、ご自身をいけにえとしてささげてくださいました。だからこそ私たちは律法の要求から解放され、ついに神の子という聖なる身分を与えられたのです。

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「アバ、父」と呼ぶ霊的アイデンティティーの回復

私たちを贖い出してくださった究極の目的は、奴隷の束縛から解放し、神の子としての自由を味わわせ、永遠の嗣業を受け継がせることにあります。人間は肉の本来的な弱さのために律法を完全に守ることができず、律法を破って罪人となる悲劇を避けることができません。どれほど決意し、努力しても、人間の力だけで罪から完全に解放されることはできません。だからこそ、主イエスは十字架で死なれることによって、私たちに完全な自由への道を開いてくださいました。そして神は、御子の御霊、すなわちキリストの御霊を私たちの心のうちに遣わしてくださいました。かつて霊的な無知の中で神を怒りと裁きの対象として恐れ、震えていた私たちが、今ではイエスの血によって聖所に入る大胆さを与えられ、神を「アバ、父」と呼ぶ、親しい愛の関係を回復するに至ったのです。

闇の霊が私たちの人生の中心を崩そうとするとき、最も致命的な方法として用いるのが、私たちは何者なのかというアイデンティティーを揺さぶることです。荒野で悪魔がイエスを試みたときも、「あなたが神の子なら」という狡猾な問いを投げかけ、その存在の根本を揺るがそうとしました。しかし主は、神のことばによってその試みを退け、最後まで神の子としての確信を失うことなく、ご自身の中心を守り抜かれました。御言葉が示しているように、私たちの心に、自分は神の子であるという確かな自覚が根を下ろすとき、世を支配する偽りの神々や、もろもろの霊の権勢は、私たちの足もとに崩れ落ちます。アグリッパ王やフェリクス総督の前でも臆することなく、堂々と福音を宣べ伝えたパウロの勇気も、自分は神の嗣業を受け継ぐ子であるという確信から生まれたものでした。本文の御言葉は、この講解に耳を傾けるすべての聖徒に、世に向かって歩む聖なる大胆さを取り戻すよう促しています。

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献身的な愛の記憶と、十字架のとげが示す洞察

しかしガラテヤの教会は、キリストを通して与えられた真の自由と神の子としての身分を後にして、再び弱く卑しいこの世のもろもろの霊に立ち返り、その奴隷になろうとしていました。日と月と季節と年とを慎んで守る自然宗教的な律法主義へと逆戻りし、互いに非難し合い、分裂するという悲劇を招いていたのです。これに対して使徒パウロは、ガラテヤの兄弟姉妹と初めて出会ったときに交わした、純粋な愛の記憶を呼び覚まします。肉体の弱さとひどい熱病のために、城門の外へ捨てられるかもしれないという恐れの中にいたパウロを、彼らは決して見下したり、退けたりしませんでした。むしろ、神の御使いを迎えるように、さらにはキリスト・イエスご自身を迎えるように、パウロを温かく受け入れてくれたのです。

できることなら、自分たちの大切な目さえもえぐり出して与えたい。ガラテヤの兄弟姉妹は、そう願うほどパウロを愛していました。その純粋な愛は、キリストの恵みの中で育まれた霊的な交わりの深さを表していました。パウロには、「サタンの使い」のような肉体のとげがありました。それは、真理を深く探究し、書物を読み、文字を書き続ける中で悪化した目の病でした。その苦しみの中でも、パウロとガラテヤの兄弟姉妹は、愛によって一つに結ばれていました。パウロはその痛みを抱えながら、私たちのために刺し貫かれたキリストの苦難を覚え、その道を歩み続けました。この御言葉は、教会が律法主義による冷たい争いに揺さぶられるとき、どこに立ち返るべきかを教えています。それは、十字架の愛と、互いに真心をもって仕え合う関係です。

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再び産みの苦しみをもって守り抜く福音の恵み

律法主義の偽教師たちが教会に入り込み、熱心に働いたのは、聖徒たちを愛していたからではありません。聖徒たちをパウロから引き離し、自分たちに従わせようという不純な意図があったからです。教会が真理から離れ、福音の力を失うと、共同体は互いに憎み合い、傷つけ合うようになってしまいます。しかし、愛こそ律法の完成であり、律法が目指す最高の到達点です。パウロは教会を思う切実な心から、彼らのうちにキリストの形が成るまで、もう一度、産みの苦しみを味わうこともいとわないと語ります。パウロはすでに、一人ひとりを信仰に立たせるために、産みの苦しみのような痛みを経験していました。それでも、信仰が変質しつつある聖徒たちのために、もう一度その苦しみを引き受けようとしたのです。そこには、彼らを最後まで見捨てない、牧会者としての深い愛と決意がありました。

この講解を通して示される最終的な結論は、信仰にとって最も恐ろしい敵の一つが、恵みの福音を別のものへと変えてしまうことだという事実です。真理の御言葉から離れ、この世の偽りの教えや宗教的な形式主義に陥るなら、私たちの魂は再び奴隷のくびきを負うことになります。しかし、主イエスが十字架の贖いによって与えてくださった、神の子としての身分と自由は、決して奪われることのない聖なる遺産です。だからこそ私たちは、へりくだって自分自身の歩みを振り返る必要があります。そして、自分のうちにキリストの姿が形づくられているかどうかを、絶えず確かめながら歩んでいかなければなりません。

✍️ 聖書黙想の問い(ともに分かち合いましょう) 第一に、今日、私はどのようなアイデンティティを持って、この世の荒波の中を生きているでしょうか。今も自分の資格や行いを基準にして自分を責める、奴隷のような生き方にとどまってはいないでしょうか。

第二に、どのような試練の中にあっても、私を子として呼んでくださった創造主の御声を聞き、その確信をもって歩んでいるでしょうか。神を「アバ、父」と呼ぶ、神の子としての自覚は、私の生活の中にどれほど深く根を下ろしているでしょうか。

最後に、私のうちにおられるキリストの御霊の御声に耳を傾け、父の心を知る子として、今あらためて歩み始めることができるでしょうか。律法の束縛から解放され、神の子として与えられた真の自由と希望の中を歩み、その実を結ぶ日々となるよう、静かに自分自身を振り返ってみましょう。