講解 07 / 全12講

約束による相続人
Heirs of the Promise

ガラテヤ人への手紙 3章15-29節
Scripture

本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 3章15-29節 です。

お読みいただく前に、お手元の聖書、または新日本聖書刊行会の聖句検索にて、該当箇所を一度お通しくださいますようお願いいたします。

聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会
訳文について:本講解の聖句箇所は、新改訳2017に基づいて掲載しております。正確な引用のため、実際のご使用の際は、お手元の聖書と照らし合わせてご確認いただければ幸いです。

沈みゆく闇の中で灯をともす働きは、いつの時代も、荒れ狂う航海のただ中でなされます。英国の風景画家ウィリアム・ターナーの作品に描かれる嵐の海では、激しく押し寄せる波と濃い霧が、さまよう船の進むべき方向を覆い隠しています。しかし、そのような混沌のただ中にも、進むべき道を照らす光があり、救いへと導く揺るぎない中心軸が確かに存在しています。

初代教会の時代、ガラテヤの教会もまた、ユダヤ主義的な律法観と福音の本質が正面からぶつかり合う中で、自分たちは何を信じ、何に立つのかというアイデンティティーをめぐって大きく揺さぶられていました。「イエス・キリストを信じるだけでは十分ではない。割礼を受け、モーセの律法を守って初めて救われる」という偽教師たちの教えが入り込み、恵みによる福音の根幹を揺るがしていたのです。この混乱のただ中で、使徒パウロは歴史を四百三十年さかのぼり、神がアブラハムと結ばれた壮大な契約へと人々の目を向けさせます。日本オリベットアッセンブリーが伝えるメッセージは、人間の労苦や行いによって救いを得ようとする生き方から私たちを解き放ち、主イエスが与えてくださったいのちの契約と福音の光へと、その眼差しを導いていきます。

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律法に先立って与えられたアブラハムの契約

義認、聖化、そして栄化へと続く信仰の歩みは、人間が自らの力で功績を積み上げていく歩みではありません。ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙を貫く中心的なメッセージは、罪人が神の御前で義とされる御業、すなわち義認は、ただキリストの恵みと信仰によって成し遂げられるという真理です。創世記十五章において、神は、子どもがなく、家で育ったしもべを相続人にしようと考えていたアブラハムに、天の数えきれない星を見せ、ご自身の身から出る者が後継者となることを約束されました。アブラハムがこの約束を信じたとき、神はその信仰を彼の義と認められたのです。

さらに神は、雌牛、雌やぎ、雄羊を二つに裂き、それぞれを向かい合わせに置かせ、その裂かれたいけにえの間を燃えるたいまつが通るようになさいました。ヘブル語の「ベリート」が示すように、契約とは、いけにえを裂き、血を流すことによって、いのちそのものを懸けて結ばれる厳粛な誓約でした。神ご自身が裂かれたいけにえの間を通られたこの出来事は、契約を必ず成就するために、ご自身の真実といのちをもって保証された、無条件の恵みの宣言だったのです。

この恵みの契約は、後にシナイ山でモーセを通して与えられた律法よりも、実に四百三十年も前に与えられたものでした。律法や割礼という制度が設けられる以前から、神の御前における救いの道は、人間の行いや功績によってではなく、神の憐れみに満ちた約束と、それを信じる信仰によって開かれていたのです。使徒パウロは、この歴史的事実が持つ意味を深く見つめ、四百三十年後に与えられた律法によって、神がすでに与えておられた約束が取り消されたり、無効にされたりすることは決してないという厳粛な真理を宣言します。

私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。 ガラテヤ人への手紙 3章17節(新改訳2017)
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罪を悟らせる鏡としての律法

それでは、神が人間に律法をお与えになった本来の目的とは何でしょうか。律法は、人間の違反のゆえに付け加えられました。鏡が顔についた汚れを映し出しても、それ自体で汚れを洗い落とすことはできません。それと同じように、律法は人間の罪を明らかにし、私たちの心を刺し貫くことで、自分の力では決して義を成し遂げることができないと悟らせ、その事実を認め、告白するように導きます。

そして、律法によって罪を厳しく指摘されることを通して、私たちは初めて、自分を生かしてくださる神の恵みがどれほど豊かなものであるかを、身をもって知るようになります。罪の増し加わるところに恵みも満ちあふれたという告白は、自らの罪を深く認め、悔い改めるとき、赦されたことへの感動もまた、いっそう深く心に迫ってくることを意味しています。律法は私たちを絶望させるために与えられたのではなく、恵みの豊かさへと目を開かせるために与えられたのです。

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キリストへ導く養育係としての律法

律法は、私たちをキリストへと導く養育係のようなものです。原語の「パイダゴーゴス」は、古代社会において、奴隷の身分にありながら幼い子どもを守り、学校まで送り届ける務めを担った者を指します。時には厳しくたしなめながらも、その目的はあくまで、子どもを正しい道へと導くことにありました。律法もまた、約束された子孫であるイエス・キリストが来られるまで、人類の秩序を保ち、人々を救い主へと導くという限られた役割を担っていたのです。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 ガラテヤ人への手紙 3章24節(新改訳2017)

主イエスが来られたことによって、私たちは律法の束縛から解き放たれ、真の自由を与えられました。今や聖徒の信仰生活は、してはならないという強制的な規則に縛られた奴隷としての生き方ではありません。上から注がれる聖霊の恵みを受け、心も生活もその根本から造り変えられながら、神の子どもとして歩む生き方へと進んでいくのです。恐れと義務感に突き動かされる歩みから、感謝と愛に促される自発的な従順へ。律法の条文との関係から、キリストとのいのちの結びつきへ。それが、養育係の時代を終えた者に与えられた新しい歩みです。

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キリストを着て、約束の嗣業を受け継ぐ

義認が、神の御前で法的に義と認められるという身分の変化であるなら、聖化とは、私たちの生活と人格が日ごとに新しく造り変えられていくという状態の変化です。バプテスマを通して救いの確証を受けた聖徒たちは、キリストを着た者です。聖書において衣は、聖徒たちの正しい行いと、救われた者のしるしを象徴しています。罪に染まった私たちの汚れた衣を清く洗うことができるのは、ただキリストの尊い血と聖霊の御業だけです。

キリストと一つにされ、キリストを着た者たちの間では、世が築き上げたあらゆる差別の壁が崩れ落ちます。ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女も、すべてキリスト・イエスにあって一つだからです。アブラハムに与えられた神の約束は、多くの者を指す複数形ではなく、ただお一人であるイエス・キリストを指すものでした。それゆえ、私たちが信仰によってキリストに属する者となるとき、血統や民族の違いを越えて、だれもがアブラハムの真の霊的な子孫となります。そして、神の約束に従って、永遠の御国の嗣業を受け継ぐ相続人となるのです。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。 ガラテヤ人への手紙 3章28節(新改訳2017)

救いは、人間が積み上げた行いや功績に対する報酬ではなく、神が価なしに与えてくださる聖なる賜物です。憐れみ深い父が、家を出た放蕩息子を何の条件もつけずに抱きしめたように、十字架においてすべての罪と刑罰を贖ってくださった神の愛を心から受け入れるとき、私たちの魂の深みに、揺るがない堅固な錨が下ろされます。

✍️ 聖書黙想の問い(ともに分かち合いましょう) 第一に、波が絶えず押し寄せるこの世の海のただ中で、私の魂は今、どこに錨を下ろしているでしょうか。容赦なく迫る律法の要求の下で、自分の力によって歩もうとして挫折を繰り返してはいないでしょうか。

第二に、律法という養育係は、私の信仰生活の中でどのような働きをしてきたでしょうか。自らの罪を示され、キリストの恵みの豊かさに目を開かれた経験を、思い起こしてみましょう。

最後に、キリストを着た者として、私は身分や立場、育ちの違いを越えて兄弟姉妹と一つとされているでしょうか。約束による相続人としていただいた恵みを覚えつつ、静かに思い巡らしましょう。約束の上に立つすべての聖徒に、主の自由と平安が豊かに満ちあふれますように。