本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 3章1-14節 です。
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聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会古代西洋文明の基盤となったローマの法体系や社会規範では、行為には必ずそれに見合う対価が求められ、厳格な条件が重んじられていました。人間の功績を量り、それにふさわしい報いを与えるというローマ的な考え方は、この世の普遍的な道理であり、揺るがない秩序のように受け止められていました。しかし、十字架において完成された神の救いの御業は、そのような世俗の価値観を根底から覆す、驚くべき出来事でした。人間の資格や功績が入り込む余地のない贖いの血と、何の条件もなく与えられる恵みは、人間の限られた理性には、理解しがたい愚かなものにさえ映ったのです。日本オリベットアッセンブリーのガラテヤ書講解説教は、世から負わされたくびきと偽りの教えに縛られていたガラテヤの信徒たちに向かって、この十字架の真理と、自由を与える福音の力を力強く宣べ伝えます。
愚かさの束縛を引き裂く十字架と聖霊の証し
偽教師たちの策略に惑わされ、自ら再び律法の牢獄へと戻ってしまった共同体を見つめる使徒の心は、深い痛みと憤りに満ちていました。恵みによって歩み始め、聖霊の豊かな御業を経験した聖徒たちが、人間の行いや成文律法という肉的な条件へと立ち返ろうとする姿は、福音の純粋さを根底から揺るがす深刻な後退だったのです。神が人類を救うために成し遂げられた受肉と十字架の贖い、そして復活と昇天の御業は、ユダヤ人にはつまずきとなり、異邦人には愚かに見えるとしても、召された者たちにとっては、神の完全な知恵であり力です。罪から完全に解放されたにもかかわらず、自ら再び古い儀式の鎖を首に掛けることは、福音のまばゆい光を自ら覆い隠してしまう愚かな行いにほかなりません。
ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。 ガラテヤ人への手紙 3章1節(新改訳2017)
私たちが救いにあずかり、神の御霊を心に迎えることができたのは、決して律法を完全に守ったからではありません。すでに多くの聖徒たちに証印として与えられた聖霊は、人間の功績に対する報いではなく、主の御名を呼び求める者たちに無償で与えられた聖なる賜物です。自分たちの基準に縛られていた人々は、異邦の罪人と見下していた人々にも神の御霊が注がれるという奥義を、到底受け入れることができませんでした。しかし、聖霊による証印こそ、分け隔てのない救いの御業を示す、何より力強い証しでした。すでに賜物として受けた聖霊と救いの恵みに、さらに儀式的な行いを付け加えようとすることは、神が与えてくださったいのちの力を、人間の努力の水準にまで引き下げてしまう、空しい試みにすぎません。
アブラハムの信仰が照らす契約の相続人たち
ユダヤの伝統において、最も尊い信仰の模範とされていたアブラハムの生涯は、人がどのようにして義とされるのかを、余すところなく示しています。彼が神から義と認められたのは、割礼という身体のしるしを受ける前であり、モーセを通して律法が与えられる、実に四百三十年も前のことでした。行く先を知らないまま御言葉に従い、天の故郷を慕い求めて歩んだアブラハムは、死者をもよみがえらせることのできる神の力を信頼し、イサクを献げました。神は、その歩みの中心にあった信仰をご覧になり、彼を義と認められたのです。それゆえ、義の源は目に見える行いや律法の遵守ではなく、約束を与えてくださった神を全く信頼する信仰にあります。
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。 ガラテヤ人への手紙 3章6節(新改訳2017)
この驚くべき神学的真理は、異邦人であった私たちもまた、アブラハムと同じ約束を受け継ぐ相続人であり、彼の真の子どもとされたことを明らかにしています。東西南北へと広がる彼の子孫への祝福は、アブラハムと同じ信仰の足跡をたどるすべての人に開かれた永遠の契約です。栽培されたオリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの枝のように、私たちは恵みの豊かな養分を共に受けることで、神の国の嗣業を受け継ぐ者とされました。あらゆる差別や境界を打ち壊す、この計り知れない恵みの原理は、人間が積み上げた功績による義を一切退け、ただ真実な神の約束だけを見上げるよう、私たちを導きます。
律法ののろいを贖われた十字架と完全な自由
人間の罪を明らかにし、それを悟らせる鏡としての律法は、自らの力では決して義を成し遂げることのできない人間の限界を、厳しく示します。律法のすべての定めを、いつも完全に守り続けることのできない者は、その厳格な基準のもとで、のろいと断罪を免れることができません。律法の基準が明らかになればなるほど、私たちの良心は鋭く責められ、人は罪に定められた状態に縛られ、深い苦しみと嘆きの中に置かれます。罪を取り除く力を持たない律法の限界の中をさまよい続けるうちに、人は、自分が霊的な牢獄に閉じ込められた、無力な存在であることを深く悟るようになるのです。
しかし、イエス・キリストは木に掛けられ、ご自身がのろわれた者となられることによって、私たちを押し潰していた律法の重いのろいと死の力から、完全に贖い出してくださいました。ご自身がのろいの下に身を置き、死によって死の力を打ち滅ぼされた主イエスの受難は、私たちが支払うべきすべての罪の代価を完全に清算した、贖いの御業の完成です。さらに主イエスは、私たちを罪人から義人へと新しく生まれ変わらせるために、死を打ち破ってよみがえられました。私たちがキリストと共に十字架につけられ、古い自我が死に、キリストが私たちの内に生きておられるという神秘的な結びつきにあずかるとき、初めて罪と断罪への恐れから解き放たれ、魂の真の自由を味わうことができるのです。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。 ガラテヤ人への手紙 3章13節(新改訳2017)
約束の御霊のうちに歩む黙想の生活
私たちを義としてくださった神の恵みは、霊的な身分を変えるだけではなく、人生のあらゆる歩みを新しく造り変える聖霊の御業へと続いていきます。自らの決意や肉の意志だけでは、救いにふさわしい聖なる実を結ぶことはできません。そのため主は、ご自身の御霊を私たちの内に遣わし、聖化の道を歩む力と希望を与えてくださいました。日本オリベットアッセンブリーの説教が伝える福音の核心は、人間の功績や道徳的な行いによって救いを得ようとする、あらゆる世俗的な考えを手放し、十字架の贖いという、すでに成し遂げられた御業をへりくだって受け入れる信仰へと立ち返ることです。
アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人にまで及んだのは、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためでした。律法の行いによって神に近づこうとする道と、約束を信じて御霊のうちを歩む道は、決して並び立つものではありません。前講において「私はキリストとともに十字架につけられました」と告白したパウロは、ここでその告白が、アブラハムに与えられた約束の成就として、聖霊のうちに現実となることを示しています。恵みによって始められた歩みは、恵みによって完成されるのです。
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 ガラテヤ人への手紙 3章14節(新改訳2017)
第二に、行く先を知らないまま、ただ神の真実な約束を信頼して歩んだアブラハムのように、今日の私の生活の中で、損得の計算や恐れを手放し、従順をもって踏み出すべき最初の一歩とは何でしょうか。
最後に、十字架の上で私のためにのろいを負い、よみがえられた主イエスの愛を覚えながら、もはや自分ではなく、私の内に生きておられるキリストに導かれ、約束の御霊のうちを日々歩む恵みを、十分に味わっているでしょうか。そのことを静かに思い巡らしましょう。約束の上に立つすべての聖徒に、主の自由と平安が豊かに満ちあふれますように。