本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 6章6節–18節 です。
お読みいただく前に、お手元の聖書、または新日本聖書刊行会の聖句検索にて、該当箇所を一度お通しくださいますようお願いいたします。
聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会彫刻家オーギュスト・ロダンが残した作品の数々をじっくりと見てみると、粗い石の塊から浮かび上がる人体の張りつめた筋肉や、そこににじむ汗の粒までも感じさせるような表現が、見る者の視線を捉えて離しません。そこにあるのは、ただ滑らかに整えられた定型的な美しさではありません。むしろ、その形を内側から突き破るかのように、激しい労苦や痛みの痕跡が刻み込まれています。だからこそ、その作品は私たちの心に、観念だけでは捉えきれない、深く実存的な響きを伝えてくるのです。
まことの芸術は、言葉や思想をもてあそぶだけで生まれるものではありません。作家自身が骨を削るような労苦を重ね、その苦闘をくぐり抜けることによって、ようやく目に見える形となって現れてきます。それと同じように、使徒パウロがガラテヤの教会の人々に伝えた福音も、ただ頭の中で理解して終わるものではありません。福音は、私たちの具体的な生活の中に現れる、聖なる実践を求めています。日本オリベットアッセンブリーの水曜礼拝で語られてきた御言葉の流れに沿いながら、ガラテヤ人への手紙6章の最後の勧めを深く黙想してみましょう。そこに目を向けていくと、高尚な神学的知識にとどまっていた私たちの信仰が、具体的な生活の中での分かち合いと十字架の痕跡を通して、どのように完成されていくべきなのかが見えてきます。そしてそこには、私たちの信仰と日々の生き方を一つに結び合わせる、深い神学的洞察を見いだすことができるのです。
愛の具体性、観念の戯れを超えて生活の分かち合いへ
御霊に従って歩む人の人生には、御霊の実が結ばれていきます。そして、その色とりどりの実の中心に据えられているのが、まさに愛です。では、福音が語る愛とは、どのような愛なのでしょうか。それは、頭の中だけで理解する観念的な知識ではありません。他者を受け入れる心の余裕をもち、疲れている人がいればその重荷をともに担う。そのような具体的な寛容と赦しの行為として、愛は私たちの生活の中に現れていきます。イエス様もマタイの福音書25章で、小さき者のひとりにしたことは、ご自分にしたことなのだと語られました。つまり、愛は抽象的な理念として語るだけでは十分ではありません。目の前にいる一人の人に心を配り、手を差し伸べる。そのように生活の現場で実践されるとき、愛は初めてその生命力を具体的に現すのです。このことは、使徒パウロの教えにもはっきりと表れています。都市を中心として宣教を展開したパウロも、観念的な言葉だけで福音を語ったのではありません。聖徒たちが実際に生きている日常生活にまで踏み込み、そこでどのように愛を実践すればよいのかを、具体的な言葉をもって一つひとつ示していきました。
その具体的な実践の一つとして、パウロがまず語っているのが「分かち合うこと」です。使徒は、御言葉を教えてくれる教師たちと、すべての良いものを分かち合うようにと勧めています。霊的な真理を伝える人たちが生活に困ることのないよう、その必要を実際に顧みることまで求めているのです。高尚な真理をともに分かち合う霊的な交わりがあるなら、生活に必要な物質も喜んで分かち合っていく。そのこともまた、決しておろそかにすることのできない、福音的倫理の大切な柱なのです。ところが、このような分かち合いについて考えるとき、私たちは思い違いや錯覚に陥ることがあります。そこでパウロは、非常に厳粛な言葉を語ります。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません」。ここでパウロが明確にしているのは、神は決して人に侮られるような方ではないということです。このことを理解するうえで、スカルの井戸辺でのイエス様の姿を思い起こすことができます。主イエスはそこで、サマリアの女性に水を求められました。しかし、それは主イエスが何かに不足しておられ、その不足を人間に満たしてもらわなければならなかったからではありません。私たちの分かち合いや奉仕についても同じです。私たちが何かをささげ、誰かに仕えるのは、神に足りないものを補い、神を満たしてさしあげるためではありません。むしろ神は、その分かち合いと奉仕を通して、私たち自身に祝福と恵みを注ごうとしておられます。
では、なぜパウロはここまで具体的な分かち合いを求めるのでしょうか。それは、使徒が指し示している愛が、イエス・キリストの内面と御心、さらにはその苦しみまでも含めて受け止める、全き愛だからです。出エジプトのとき、イスラエルの民は小羊の頭も足も内臓も、残すことなく食べるように命じられました。その御言葉が示すように、私たちもイエス様の道徳的な教え、いわば「足」の部分だけを受け取るのではなく、はらわたがちぎれるほどに人を愛された主イエスの深い御心、そしてその愛ゆえに担われた労苦と苦しみまでも、余すところなく受け止めていくのです。そう考えると、愛は決して頭の中だけで完結するものではないことが分かります。愛についてどれほど美しく語ったとしても、それが生活の倫理へとつながり、さらに物質的な分かち合いという現実の問題にまで届かなければ、それは思想的な戯れにとどまってしまいます。ですから、この説教が私たちを導こうとしている真理も、虚しい観念の殻を打ち破り、そこから外へ出ていくことです。そして、貧しさの中にいる人、取り残されている隣人に目を向け、自分に与えられているものを喜んで分かち合っていく。まさにそこに、福音を実際に生きるという、まことの福音的従順の現場があるのです。
永遠のものを蒔く種、時が来て刈り取る聖なる実り
人間の人生は、何のために種を蒔くかによって、刈り取る実りがはっきりと分かれる霊的な農作業に似ています。だからこそ御言葉は、私たちに厳粛な警告を与えています。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は、種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 ガラテヤ人への手紙 6章7節(新改訳2017)
自分の肉のために種を蒔く人は、この世の罪深い欲望に従って生き、その結果として、やがて朽ちてしまうものを刈り取ることになります。しかし、御霊のために種を蒔く人は、御霊から永遠のいのちを刈り取ることになります。主イエスもヨハネの福音書6章で、朽ちる食物のためではなく、いつまでも残り、永遠のいのちに至る食物のために働くようにと語られました。私たちの目の前にあるものは、どれほど大切に見えたとしても、朝もやのようにやがて消えていく有限なものです。だからこそ聖徒は、その一時的な価値だけに心を奪われるのではなく、それを手放しながら、永遠に消え去ることのない霊的な価値へと自分の人生を投じていかなければなりません。
第二コリント人への手紙9章で、パウロは聖徒たちを支えるための献金について語り、少ししか蒔かない者は少ししか刈り取らず、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ると教えています。この教えは、ガラテヤ人への手紙で語られている「御霊のために蒔く」というメッセージとも深くつながっています。私たちに種を蒔くよう求めておられる神ご自身が、まず私たちに必要なものを与えてくださる方だということです。神は、今日食べるための糧だけを備えてくださる方ではありません。明日、私たちが再び蒔くための種までも自ら備え、それを豊かに増し加え、私たちを通して豊かな義の実を結ばせてくださる、恵み豊かな父なのです。乏しい人の側に立ち、自分に与えられた財を分け与え、貧しい人々に施す。そのようにして蒔かれた義の種は、神の前で決して失われることなく、その義はとこしえに残るのです。神が願っておられるのは、いやいやながらでも、しぶしぶでもなく、喜びをもって、自ら進んでささげることです。そのようにして献げられる惜しみないささげ物は、それを受け取った多くの人々の心に感謝を生み出し、その感謝はやがて神へと向かっていきます。こうして私たちの分かち合いは、最後には神に栄光を帰する聖なる賜物となっていくのです。
しかし、貧しさや困難の中にある人々を絶えず心に留め、その必要を満たすために善を行い続けることは、決して容易ではありません。その歩みが長くなればなるほど、聖徒たちは疲れを覚え、「もうこれ以上続けられない」と失望しそうになることもあります。だからこそ、パウロはこう励ましています。「善を行うのに飽いてはいけません。あきらめずにいれば、時が来て刈り取ることになります」。この言葉を通してパウロは、私たちの目を神の時、すなわちカイロス(Kairos)へと向けさせています。私たちには、涙を流しながら種を蒔き続けるクロノス(Chronos)の時があります。すぐに実が見えなくても、黙々と種を蒔き、耐え忍ばなければならない時期を耐え忍んで歩み続けるなら、神はご自身が定めておられる時に、喜びの束を豊かに刈り取らせてくださる恵みを必ず与えてくださいます。ですから、倦むことのない熱心さをもって、すべての人に、そしてとりわけ、ともに信仰の道を歩んでいる教会の人々に善を行うことに力を尽くしていくのです。それこそが、まことに御霊によって歩む人々が、その人生を通して示していく姿勢なのです。
十字架のほかに決して誇るもののない、ただ恵みのみの道
手紙の本論を書き終えた使徒パウロは、最後の挨拶を自ら大きな文字で書き記しながら、教会を惑わせていた律法主義者たちの偽りを、もう一度はっきりと指摘します。パウロによれば、肉において見栄えを良くしようとする者たちが、無理にでも割礼を受けさせようとした本当の理由は、キリストの十字架のゆえにユダヤ社会から受ける迫害を避けるためでした。それだけでなく、他の人々に割礼を受けさせ、その肉体に刻まれたしるしを自分たちの働きの成果として誇ろうとしていたのです。しかも彼ら自身が律法をきちんと守っていたわけではありません。それにもかかわらず、かつての律法学者やパリサイ人たちのように、外面的なしるしを救いに必要なものとして強いることは、キリストの十字架が持つ無限の力を損ない、そこに人間の功績を付け加えようとする、きわめて危険な試みだったのです。
宗教改革は、「ただ聖書に立ち返れ」と力強く訴えたように、人間を罪と死から救い出すために必要なのは、キリストの十字架の福音です。この福音だけで完全であり、十分なのです。そこに人間の功績を付け加える必要はありません。もちろん、十字架はすべての人に受け入れやすいものだったわけではありません。ユダヤ人にとってはつまずきとなり、異邦人にとっては愚かなものに見えました。それでもパウロは、まさにこの十字架こそが自分の誇りであると、次のように大胆に告白します。
しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇りとするものが決してあってはなりません。 ガラテヤ人への手紙 6章14節(新改訳2017)
ピリピ人への手紙3章で、パウロは、それまで自分にとって有益だと思っていたこの世の特権や知識を、キリストのゆえに汚物のように投げ捨てたと言いました。そして、彼はただキリストを知るという、何ものにも代えがたい知識のために、ひたすら目標を目指して走り続けました。同じように、福音に生きる人とは、この世の名声や誉れに対して、すでに十字架につけられた者なのです。割礼を受けているか、受けていないかという外面的な条件によって、人の魂が自由になるわけではありません。本質的に大切なのは、神に従い、義と真理の聖さのうちに造られた「新しく造られた者」となることです。だからこそ、片足を世に置き、もう片方の足を教会に掛けたまま、世と御言葉の両方を同時に愛そうとする生ぬるい態度を捨てなければなりません。「私はキリストとともに、すでに死んだのだ」と告白して生きること、それこそが、新しいいのちの御業を経験していく唯一の道なのです。ここに、本文のメッセージが私たちのうちに呼び覚まそうとしている福音の精髄があります。迫害を避けるために、この世を要領よく渡っていこうとする生き方を捨て、ただ十字架という聖なる岩の上にしっかりと立つのです。そうしてこそ、神が与えてくださる平安と憐れみの祝福を味わうことができます。これこそ、福音に生きる者に求められている信仰の純粋さなのです。
私の身に刻まれたイエスの焼き印、主のものとなった人生の告白
偽教師たちが絶えず教会をかき乱し、福音についてさまざまな誤解を広げていく中で、使徒パウロは教会を守り抜かなければなりませんでした。そのパウロの心に重くのしかかっていたのは、自分が数々の患難を受けること以上に、教会の人々の信仰が揺らぎ、福音から離れて変質してしまうことへの深い心配でした。そしてパウロは、そのような思いを抱えながら、自分自身がいったいだれに属する者なのかを、次のような胸を打つ自伝的な告白を通して、全世界に向かってはっきりと宣言します。
今からのちは、だれもわたしを煩わせないでほしい。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。 ガラテヤ人への手紙 6章17節(新改訳2017)
ここで言う焼き印、すなわち「スティグマ(Stigma)」とは、かつて家畜や奴隷の体に焼きごてを押し、その所有者がだれであるかを明確に示すためにつけられた印のことです。パウロが「自分の身にイエスの焼き印を帯びている」と告白したのは、それほど深い意味を持つ言葉でした。もはや自分自身の意思やこの世の価値観に従って生きるのではなく、イエス・キリストが血の代価を払って買い取ってくださった、主イエスの聖なる所有物として生きる。その事実を、彼の体に刻まれた傷そのものが証ししていました。パウロが福音を宣べ伝える中で受けたとげや、幾度もの鞭打ちによって残された傷は、主イエスに対する全き献身のしるしでした。同時にそれは、どのような偽りの教えによっても揺るがすことのできない、まことの使徒権を証しするものでもありました。自分の人生のすべてが主イエスのものであり、魂の最も深いところまでも主イエスのものであると心から認めるとき、聖徒はこの世の苦難を恐れる必要がなくなり、真理のうちにあるまことの自由を味わうようになるのです。
私たちは今、自分の正しさを示し、自分が成し遂げたことを誇ろうとする思いに満ちた、荒々しい時代を生きています。自分にはこれだけの価値がある、自分はこれだけのことを成し遂げたと、人間の功績やこの世の華やかなしるしを自分の額に刻もうとしているのです。しかし、そのようにして自分を飾ろうとする私たちの愚かさを静かに手放させてくれるものがあります。それは、私のためにご自分の身を捨ててくださった、主イエス・キリストの十字架の愛です。今日、私の魂に、そして日々の生活の中に、歳月が流れても消えることのない「イエスの聖なる痕跡」は、はっきりと刻まれているでしょうか。ガラテヤ人への手紙は、最後に恵みの祝福をもって閉じられます。その祝福の言葉が告げているように、主イエス・キリストの限りない恵みが私たちの心の深いところにまで満ちあふれるとき、私たちはこの世の風に揺さぶられることなく、日々十字架をしっかりと握りしめながら、勝利するまことの主の民として生きていくことができるのです。
第二に、私は今、自分の肉のために種を蒔いているでしょうか。それとも、御霊のために種を蒔いているでしょうか。種を蒔いても、すぐに実りが見えるとは限りません。それでも善を行うことに疲れ果てることなく、神が定めておられる時を信じて待ち望んでいるでしょうか。
最後に、私の人生には、「イエスの焼き印」と呼べるほどの、主イエスのものであるという確かなしるしが刻まれているでしょうか。十字架のほかには誇るものがない者として、今日も静かに十字架を握りしめながら歩んでいきましょう。