講解 11 / 全12講

互いの重荷を負い合いなさい
Bear One Another's Burdens

ガラテヤ人への手紙 5章22節–6章5節
Scripture

本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 5章22節–6章5節 です。

お読みいただく前に、お手元の聖書、または新日本聖書刊行会の聖句検索にて、該当箇所を一度お通しくださいますようお願いいたします。

聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会
訳文について:本講解の聖句箇所は、新改訳2017に基づいて掲載しております。正確な引用のため、実際のご使用の際は、お手元の聖書と照らし合わせてご確認いただければ幸いです。

フィンセント・ファン・ゴッホが描いた〈善きサマリア人〉をじっと見つめていると、傷ついた他者の人生を自らの肩で支えようとする、ひとりの人間の荒い息づかいまで伝わってくるようです。強盗に襲われ、血を流している隣人を馬に乗せようと、全身の筋肉に力を込めているその姿は、他者の痛みと重荷を自らのものとして抱えることが、どれほど尊い行為であるかを私たちに直感的に伝えています。使徒パウロがガラテヤの教会に向けて語った「あなたがたは互いに重荷を負い合いなさい」という勧めもまた、道徳的な義務にとどまるものではありません。他者の過ちや痛みを、自分自身の肩に担うという信仰の決断を、私たちに求めています。日本オリベットアッセンブリーでは、ガラテヤ人への手紙5章と6章を通して、互いに重荷を担い合う信仰について分かち合われています。そこから見えてくるのは、私たちが他者の痛みや重荷をともに担う、その歩みの中でこそ、キリストの律法が成就していくということです。

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御霊の実、律法の孤立を超えて愛へと咲き開くいのち

ガラテヤ人への手紙5章22節と23節に記されている九つの御霊の実は、「愛」という一つの根から豊かに広がっていく枝のようなものです。喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制は、どれも愛が人生のさまざまな場面で異なる形となって現れたものだと言えるでしょう。世もまた愛について語ります。しかし、尽きることのないまことの愛がどこから来るのかを知りません。聖書が語るまことの愛は、頭で理解するだけの知識ではありません。ヘブル語の「ヤーダー(yādaʿ)」という言葉が示すように、人格的で契約的な深い関係の中で相手を知り、その関係に生き、従順をもって応えていく愛です。ヨハネの福音書21章で、主イエスがペテロに「あなたは、わたしを愛しますか」とお尋ねになったとき、ペテロは「主よ、あなたはすべてをご存じです」と告白しました。クリスチャンの愛も、まず主イエスが私を知り、愛してくださったことから始まります。その愛を知ることによって、私たちもまた主イエスを愛するようになるのです。そこに、クリスチャンの愛の深い神秘があります。

愛から生まれる恵みは、私たちの心に、世が与えることのできない深い平安をもたらします。そして、その平安は、他者に対する寛容や忍耐へと広がっていきます。使徒パウロがコリントの教会の人々に「心を広くしなさい」と勧めたように、律法に縛られ、互いに批判し、監視し合っていたガラテヤの教会の人々に必要だったのは、互いを断罪することではなく、心を広くする福音の恵みでした。自分の行いや功績によってではなく、ただ主イエスの恵みによって義と認められたことを深く知るとき、私たちの心から冷淡さが取り除かれ、他者を受け入れる余裕が生まれてきます。このように、恵みによって平安を味わう人の心には寛容が育まれ、そこから人に親切にする心や善を行おうとする思いが生まれます。そしてさらに、柔和と自制という実も結ばれていくのです。

人間の罪は、神のようになろうとする高慢から始まり、やがて他者との関係にも深い亀裂を生み出していきます。創世記3章でアダムが犯した罪が、神のようになろうとする垂直的な罪であったとすれば、創世記4章でカインが弟アベルを妬み、ついには殺してしまった出来事は、兄弟の間に生じた水平的な罪の悲劇を示しています。イザヤ書14章に描かれる明けの明星の墜落が示すように、高慢はやがて人を愚かさへと導き、他者の祝福をともに喜ぶことさえできなくさせてしまいます。妬みは、兄弟姉妹との関係を壊していく恐ろしい毒です。しかし、御霊に導かれて生きる福音の民は、自らの高慢を下ろし、柔和と自制をもって互いを顧みます。この説教が示している福音の生き方とは、まさにこのような御霊の実を結びながら、利己的で自己中心的な生き方から離れ、他者のために喜んで手を差し伸べていく愛の実践なのです。

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断罪の石を置き、赦しの地に記されるみ手

使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙6章1節で次のように語っています。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 ガラテヤ人への手紙 6章1節(新改訳2017)

ここでパウロが「御霊の人」と呼んでいるのは、何か特別な地位にある人ではありません。御霊に導かれ、キリストの香りを身に帯びながら、過ちに陥った人を柔和な心で受け止め、その回復を願う成熟した信仰者のことです。パウロ自身も、ピレモンへの手紙の中で、逃亡した奴隷オネシモのためにへりくだって執り成しました。そのように、神との和解を与えられた者は、人と人との間に隔ての壁を築くのではなく、和解へと導く者として歩むことが求められています。相手の罪や弱さだけを見て責め、裁くことは、律法主義へと陥る危険をはらんでいます。しかし、主イエスが私たちに示してくださった福音の道は、断罪ではなく、赦しと回復の道なのです。

ヨハネの福音書8章では、姦淫の現場で捕らえられた女性が、律法学者とパリサイ人たちによってイエスのもとに連れて来られます。彼らはモーセの律法を持ち出し、イエスを訴える口実を得ようとしました。しかし、主イエスは身をかがめ、地面に指で何かを書きながら、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われました。この御言葉によって、自らの罪と向き合わされた人々は、年長者たちから始まり、一人、また一人とその場を去っていきました。そして、ひとり残された女性に、主イエスは「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語られました。主イエスは彼女の罪を軽く扱われたのではありません。罪を罪として示しながらも、彼女を断罪して終わるのではなく、赦しを与え、新しい歩みへと送り出されたのです。この主イエスの姿は、自らも罪ある者であることを忘れて他者を裁くのではなく、赦しと回復へと導く福音の道を私たちに示しています。

マタイの福音書18章で、兄弟を何度赦すべきかと尋ねたペテロに対して、主イエスは「七度を七十倍するまでにしなさい」と言われ、限りなく赦すことを教えられました。続いて語られたたとえ話では、一タラントが十六年分の賃金に相当するとすれば、その一万倍にも及ぶ、到底返しきれない一万タラントの負債を免除してもらったしもべが登場します。ところが、そのしもべは外に出ると、自分に百デナリを借りている仲間の首を絞め、返済を迫ったうえで牢に投げ入れてしまいました。それを知った主人は激しく怒りました。私たちも、一万タラントにもたとえられる、到底返しきれないほど大きな罪の負債を赦していただいた者です。それにもかかわらず、他者に対して無情で冷たくふるまうことは、大きな罪となります。この深い霊的気づきは、私たちが日々ささげる主の祈りの中で、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」という告白となって、私たちの生き方に実を結ばなければなりません。

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他者の重荷を肩に負い、キリストの律法を全うする人生

ガラテヤ人への手紙6章2節は、次のように命じます。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。 ガラテヤ人への手紙 6章2節(新改訳2017)

兄弟が罪に陥ったときには、自分もまた誘惑を受け、同じ罪に陥る可能性があることを恐れ、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」という警告を心に留めなければなりません。他者の過ちや悲しみ、弱さという重荷から目をそらさず、自分の肩でともに担うことは、主イエスが十字架の上で示された贖いの精神を、私たち自身の生き方を通して具体的に表すことです。主イエスはマタイの福音書11章で、私たちが背負っている重い罪の重荷をご自身で担い、私たちを休ませてくださいます。そして今度は、心優しくへりくだっておられる主イエスとともにくびきを負い、その歩みを学ぶよう、私たちを招いておられます。

ルカの福音書18章に登場するパリサイ人は、自分は律法をよく守っているという思いから、自らを義しい者だと信じていました。そして、あたかも神様が自分に報いる義務を負っているかのように考え、取税人を見下していました。しかし、遠く離れて立ち、目を天に向けることさえせず、胸をたたきながら「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人こそ、神の御前で義と認められました。第一ヨハネの手紙が教えているように、もし私たちが自分には罪がないと言うなら、自分自身を欺くことになり、真理は私たちのうちにありません。御言葉は、次のように語っています。

だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。 ガラテヤ人への手紙 6章3-5節(新改訳2017)

自分は御言葉を全うしていると高ぶり、実際には何者でもないのに、何者かであるかのように思い込む霊的な錯覚を捨てるとき、私たちは初めて、他者を傷つける知的な高慢を手放し、兄弟の重荷をともに担うことができるようになります。使徒パウロがピリピ人への手紙3章で告白しているように、クリスチャンとは、すでに目標に達した、あるいはすでに完全な者となったと自負する者ではありません。うしろのものを忘れ、ひたすら目標を目指して走り続ける途上にある者たちです。自分の行いを誇ったり、他者を裁いたりする愚かさを捨て、それぞれが自分の行いを吟味し、自分自身の重荷を負って歩むとき、そこに信仰の真実さが表れます。本文のメッセージが私たちに気づかせてくれる福音の大切な教えは、自らの義を誇る律法的な生き方から離れ、兄弟の重荷をともに担い、キリストの愛をこの地上に表していく、へりくだった従順の歩みにあります。

私たちは今、他者の弱さや過ちをいとも簡単に批判し、指をさしてしまう冷たい時代を生きています。律法の石を握りしめ、誰かを傷つけようとしている私たちの手を静かに下ろさせてくれるものは、十字架から流れ出る無条件の恵みと愛です。今日、私の肩は、傍らにいる兄弟姉妹の疲れや重荷をともに担うことができるほど、温かく頼もしいものとなっているでしょうか。キリストが私の罪の重荷をご自身で担ってくださったように、私もまた、他者の悲しみや痛みを静かに自分の肩で受け止めていく。そのように歩むとき、私たちが労苦する日々のただ中に、天からの平安がもたらされ、キリストの律法が静かに全うされていくことでしょう。

✍️ 聖書黙想の問い(ともに分かち合いましょう) 第一に、私のうちに結ばれている御霊の実を振り返るとき、その根にある「愛」は、どれほど深く主イエスを知り、主イエスに知られているという関係から生まれているでしょうか。頭で理解するだけの愛にとどまってはいないか、静かに顧みましょう。

第二に、私は兄弟姉妹の過ちを目にしたとき、断罪の石を手にしてはいないでしょうか。それとも、自分もまた同じ誘惑に陥りうることを心に留め、柔和な心で相手を立て直そうとしているでしょうか。

最後に、私の肩は、傍らにいる誰かの重荷をともに担うことができるほど、温かく開かれているでしょうか。キリストが私の罪の重荷を担ってくださったように、私もまた、誰かの重荷を静かに担う一歩を、今日踏み出したいと思います。
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