本講で扱う聖書箇所は ガラテヤ人への手紙 5章16節–26節 です。
お読みいただく前に、お手元の聖書、または新日本聖書刊行会の聖句検索にて、該当箇所を一度お通しくださいますようお願いいたします。
聖書 新改訳2017/新日本聖書刊行会17世紀に『パンセ』を著したパスカルは、人間を「考える葦」と呼びました。人間は、一方では天使のように気高くなりうる存在でありながら、他方では獣のように悲惨な状態にまで堕ちうる存在です。パスカルは、そのような人間の内にある霊的な分裂を鋭く見つめました。鏡をのぞき込むように、自分の内面を正直に見つめたことのある人なら、誰もが、人間の内に潜む深い腐敗と、繰り返される罪の習慣を前にして、挫折を味わったことがあるのではないでしょうか。信仰によって義と認められた聖徒であっても、日々の生活の中でふと顔を出す古い習慣や情欲の影に悩むことがあります。救いの喜びを味わったにもかかわらず、なぜ私たちは、いまだ完全な聖さに至ることができず、日々うめきながら歩んでいるのでしょうか。日本オリベットアッセンブリーでは、水曜礼拝の御言葉を通して、ガラテヤ人への手紙5章16節以下から、義認という恵みの出発点に立ったクリスチャンが、どのように御霊とともに歩み、聖化の完成へと向かって進んでいくべきかということが分かち合われています。
聖書は、人間の救いを一度きりの身分の変化だけで終わるものとして語ってはいません。信仰によって罪人が神様の御前で義と認められる「義認」が身分の変化を意味するのであれば、キリストの満ち満ちた身丈に至るまで、絶えず清められながら歩んでいく聖なる人生の旅路が「聖化」です。イエス・キリストは、十字架を負われる前、最後の告別説教の中で、弟子たちにもうひとりの助け主を送ってくださることを約束されました。この世に残される弟子たちを孤児のように見捨てることなく、一人ひとりの魂の奥深くにまで訪れ、いつまでも共にいてくださる真理の御霊を送ると宣言されたのです。この御霊は、堕落によって頑なになった人間を真理へと導き、キリストが示してくださったあの偉大な十字架の愛を、日々私たちに思い起こさせてくださる神の御霊です。
神様との関係から離れた人間は、霊的には無力な存在です。創世記では、罪によって腐敗した人間について、神の霊がいつまでも人のうちにとどまることはなく、人は肉にすぎない存在となったことが語られています。この「肉」とは、ギリシア語で「サルクス(sárx)」と表現され、罪によって腐敗した人間のあり方を指す言葉として用いられています。腐敗した心からは、悪い思いや殺人、淫らな行いや貪欲が生じ、その唇と喉は、悪臭を放つ開かれた墓のようだと聖書は語っています。人間は自分の力だけでは、この習慣となった罪の鎖を断ち切ることができません。だからこそ、救われた者には、日々の歩みを顧み、助けてくださる御霊の超自然的な臨在と働きが切実に必要なのです。私たちがイエス・キリストを救い主と告白し、教会の肢体とされたことも、自らの力によるものではありません。一つの魂を建て上げるために、目には見えないところで働いてくださった御霊の恵み深い導きがあったからにほかなりません。
罪の陰を拭い去る、聖霊の配慮
五旬節の日、マルコの家の屋上の間に聖霊が降られた出来事は、救済の歴史に新しい時代の幕を開くものでした。老いも若きも、男女のしもべも分け隔てなく、すべての人の上に注がれた聖霊の火は、その最初の働きとして、人々のもつれた舌を解き放ちました。悪意や呪い、欺きに満ち、悪臭を放つようであった腐敗した唇が、聖霊のバプテスマを受けることによって、神様を賛美し、霊的な真理を宣べ伝える聖なる告白の器へと変えられたのです。人の口から出る悪い言葉は、結局のところ、その人の腐敗した内面から生じるものです。しかし、聖霊が来られて心の闇を追い払ってくださるとき、私たちの内側に真の刷新と清めが起こります。
使徒の働きのすべての記録が証ししているように、御霊は救われた者の人生にともない、その歩みを導いてくださいます。私たちは十字架の血によって救われましたが、なお罪に汚れた衣をまといながら、天の故郷を目指して歩む聖なる旅人です。ヨハネの黙示録の御言葉が語るように、いのちの木に近づくためには、絶えず自分の衣を洗い、小羊の血によって白くしていただかなければなりません。この聖化の歩みは、時に厳しく苦しいものです。しかし、助け主である聖霊が私たちとともに住み、勇気を与えてくださるからこそ、私たちはこの聖なる道を諦めることなく、最後まで歩み続けることができます。主は御霊を通して、私たちの聖化の歩みが決して恥ずべき結末に終わることのないよう、最後まで守ってくださいます。
肉の欲を打ち勝つ、聖なる同行
使徒パウロは、ガラテヤの教会に向かって、次のように力強く勧めています。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 ガラテヤ人への手紙 5章16節(新改訳2017)
義と認められた聖徒の内には、なお過去の惰性に引かれて罪へと向かおうとする古い自我と、聖く正しい道へと導こうとされる御霊の願いとがあり、互いに激しく対立しています。これまで身についた罪深い習慣は、長年の慣れによって無意識のうちにいつもの道へ車を走らせてしまうように、私たちを繰り返し暗闇へと引き戻そうとします。この罪の強い力を断ち切り、聖さへと歩みを進めるために必要なのは、御霊の力強い導きに従って歩むことです。
御霊の導きのうちにとどまる聖徒は、一つひとつの行いを規定する律法の束縛から解き放たれ、まことの霊的な自由を味わうようになります。しかし、この自由は、自分の思いのままに生きてよいという放縦でも、肉の欲を満たすための利己的な機会でもありません。御言葉は、この自由を誤って用いることのないよう、次のように厳しく警告しています。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。 ガラテヤ人への手紙 5章19-21節(新改訳2017)
とりわけ性的な罪は、他の罪とは異なり、神の宮である自分の体に対して直接罪を犯すものであり、自らを傷つける深刻な堕落です。それゆえ聖徒は、罪を犯させる目や手を切り捨てなさいと語られた主イエスの御言葉に従うように、罪へとつながる道を徹底して断ち切る必要があります。そして御霊の力に拠り頼みながら、情欲をかき立てるような状況や場所を賢く避けなければなりません。
十字架との連合と結ばれる御霊の実
キリスト・イエスに属する者について、御言葉は次のように語ります。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 ガラテヤ人への手紙 5章24節(新改訳2017)
まことのぶどうの木である主イエスにつながる枝として、聖徒は主イエスの死と復活に深く結び合わされています。「今はもはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という大胆な告白が、その人生を導くようになるのです。古い人の習慣と朽ちていく欲望を脱ぎ捨て、日々自らの行いの衣を洗い続ける聖徒は、神の国の聖なる民にふさわしい、清く聖なる品性へと少しずつ造り変えられていきます。
そして、この説教が最後に照らし出す麗しい姿は、この世の空しい栄光を求めて互いに妬み合う生き方を捨てることです。御言葉は、次のように勧めています。
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。 ガラテヤ人への手紙 5章25-26節(新改訳2017)
御霊の導きに従って歩むとき、聖徒の人生には、次のような麗しい御霊の実が結ばれていきます。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 ガラテヤ人への手紙 5章22-23節(新改訳2017)
これらは、律法による断罪や義務感によって無理に生み出すものではありません。ぶどうの木につながった枝に自然と水分が行き渡り、実が結ばれていくように、御霊とともに日々歩む者のうちに、神のいのちが働くことによって結ばれていく実なのです。
救いとは、罪の赦しを受けて、現状にとどまることではありません。子とする御霊を受け、聖なる神を「アバ、父よ」と呼ぶ特権を与えられた私たちは、今や助け主である聖霊に導かれながら、日々朽ちていく古い人の衣を脱ぎ捨て、聖化という長い旅路を歩んでいくのです。今日、私たちの心や唇、そして日々の歩みは、なお肉の欲望やこれまでの習慣に引かれているでしょうか。それとも、私たちのうちにおられる御霊の静かな声に従っているでしょうか。この御言葉に照らされながら、恵みの御座の前に進み出て、御霊の宮として、愛、喜び、平安をはじめとする麗しい実を一つひとつ結んでいるかどうか、自らの信仰の歩みを静かに顧みたいと思います。
第二に、5章19-21節に挙げられている肉のわざのうち、今も私の生活に根強く残っているものはないでしょうか。罪を犯させる目や手を切り捨てるように、思い切って断ち切るべき罪への通り道がないか、静かに顧みましょう。
最後に、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のうち、今の私に最も乏しいものは何でしょうか。ぶどうの木につながる枝のように、日々御霊とともに歩み、豊かな実を結ぶ生活を新たに求めていきましょう。